企業が就業規則を変更して労働条件を見直そうとするとき、必ず論点となるのが「労働契約法10条」です。定年年齢の引き下げ、賃金体系の変更、諸手当の廃止・縮小など、労働者にとって不利益となる変更を行う場合、この条文の要件を満たしていなければ、変更の効力が争われ、無効と判断されるリスクがあります。
本稿では、社会保険労務士の立場から、労働契約法10条の条文、制定の背景、要件の内容、そして根拠となった最高裁判例までを、行政官庁の一次情報(厚生労働省の通達・パンフレット、e-Gov法令検索、裁判所の判例)に基づいて整理します。就業規則の変更を検討している人事労務担当者の方、また労働条件の変更について不安を感じている労働者の方の実務上の参考になれば幸いです。
なお、本稿は一般的な法令解説を目的としたものであり、個別の事案における適法性を保証するものではありません。実際に就業規則の変更を行う際は、社会保険労務士や弁護士など専門家への相談をおすすめします。
1. 労働契約法10条の条文
労働契約法10条は、次のとおり規定されています。
使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであるときは、労働契約の内容である労働条件は、当該変更後の就業規則に定めるところによるものとする。ただし、労働契約において、労働者及び使用者が就業規則の変更によっては変更されない労働条件として合意していた部分については、第十二条に該当する場合を除き、この限りでない。
(出典:e-Gov法令検索「労働契約法」平成19年法律第128号)
条文だけを読むと難解に感じられますが、要件を分解すると次の2点に集約されます。
- 変更後の就業規則を労働者に周知させたこと
- 就業規則の変更が「合理的なもの」であること
この2つの要件を満たした場合に限り、個々の労働者の同意がなくても、就業規則の変更によって労働条件を変更できるというのが労働契約法10条の骨格です。
2. なぜこの条文が必要なのか?8条・9条との関係
労働契約法10条を正しく理解するには、労働契約法8条・9条との関係を押さえる必要があります。
2-1. 原則は「合意の原則」(8条)
労働契約法8条は、労働者及び使用者は、その合意により、労働契約の内容である労働条件を変更することができると定めています。労働契約も契約である以上、内容の変更は当事者間の合意によるのが原則です。
2-2. 就業規則による一方的な不利益変更の禁止(9条)
労働契約法9条は、使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働条件を変更することはできないと規定しています。つまり、使用者が就業規則を書き換えただけで、労働者に不利益な労働条件を一方的に押し付けることは、原則としてできません。
2-3. 10条は9条の「例外」
労働契約法10条は、9条の例外規定として位置づけられています。厚生労働省労働基準局長通達「労働契約法の施行について」(平成24年8月10日基発0810第2号、最終改正平成30年12月28日基発1228第17号)では、労働契約法9条で合意の原則を確認的に規定した上で、10条において就業規則の変更による労働条件の変更が認められる場合を明らかにしたと説明されています(厚生労働省・同通達 第3・4(1)ア)。
つまり実務的には、「就業規則を変更すれば労働条件を自由に変えられる」のではなく、「9条により原則は禁止されているが、10条の要件(周知+合理性)を満たした場合に限り例外的に認められる」という構造で理解する必要があります。
3. 労働契約法10条が判例法理を明文化したものであること
労働契約法10条は、まったく新しいルールを作ったものではなく、最高裁判所が積み重ねてきた判例法理(就業規則の法的性質や不利益変更の合理性に関する考え方)を、法律の条文として明文化したものです。厚生労働省の通達でも、労働契約法9条及び10条は確立した最高裁判所の判例法理に沿って規定したものであり、判例法理に変更を加えるものではないと明記されています(厚生労働省・前掲通達 第3・4(1)ウ)。
したがって、条文の解釈にあたっては、これから紹介する最高裁判例の考え方が今も生きていることを理解しておく必要があります。
4. 要件1:変更後の就業規則の「周知」
4-1. 周知とは何か
労働契約法10条にいう「周知」とは、労働基準法106条が定める周知方法(就業場所への掲示・備え付け、書面の交付、電子データによる記録・閲覧等)に厳密に限定されるものではなく、労働者が知ろうと思えばいつでも就業規則の存在や内容を知り得る状態にしておくことをいうとされています(厚生労働省・前掲通達 第3・2(2)イ(オ))。
4-2. 周知に関する代表的な最高裁判例
就業規則が労働契約の内容を規律する効力(拘束力)を持つためには周知が必要であることを示した判例として、**フジ興産事件(最高裁平成15年10月10日第二小法廷判決)**が挙げられます。同判決は、就業規則が法的規範としての性質を認められるためには、その内容を適用対象の労働者に周知させる手続が採られていることが必要であるとの考え方を示しました。この判断枠組みは、労働契約法10条本文の「周知」要件の基礎となっています(厚生労働省・前掲通達 第3・4(1)イ)。
周知を怠ったまま就業規則を変更した場合、たとえ内容面で合理性が認められても、変更の効力が労働者に及ばない可能性がある点に注意が必要です。
5. 要件2:就業規則の変更が「合理的なもの」であること
5-1. 条文が挙げる考慮要素
労働契約法10条は、合理性を判断するための考慮要素として、次の4つを条文上に例示しています。
- 労働者の受ける不利益の程度
- 労働条件の変更の必要性
- 変更後の就業規則の内容の相当性
- 労働組合等との交渉の状況
そして「その他の就業規則の変更に係る事情」という包括的な文言により、これら4要素以外の個別具体的な事情も総合的に考慮されることが示されています。厚生労働省の通達では、これらの考慮要素はあくまで例示であり、個別具体的な事案に応じて、関連する事実を含め諸事情が総合的に考慮されて合理性判断が行われるとされています(厚生労働省・前掲通達 第3・4(3)オ)。
5-2. 主張立証責任は使用者側にある
就業規則の変更が「合理的」であるという評価を基礎づける事実についての主張立証責任は、従来どおり使用者側が負うとされています(厚生労働省・前掲通達 第3・4(3)カ)。つまり、変更の合理性を説明できるだけの根拠を用意し、記録化しておくことは、使用者にとって重要な実務対応となります。
6. 合理性判断の基礎となった主要な最高裁判例
労働契約法10条の合理性判断の枠組みは、以下の最高裁判例の積み重ねの上に成り立っています。厚生労働省の前掲通達でも、これらの判例が参考裁判例として明示的に挙げられています(同通達 第3・4(1)イ)。
6-1. 秋北バス事件(最高裁大法廷 昭和43年12月25日判決)
就業規則の法的性質について、合理的な労働条件を定めているものである限り、経営主体と労働者との間の労働条件はその就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして法的規範性が認められるに至っているとの考え方を示した判決です。また、就業規則の変更によって既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課すことは原則として許されないとしつつ、当該規則条項が合理的なものである限り、個々の労働者が同意しないことを理由に適用を拒否することは許されないとの判断枠組みを示しました。この判決が、就業規則の不利益変更に関する判例法理の出発点となっています。
6-2. 大曲市農業協同組合事件(最高裁 昭和63年2月16日第三小法廷判決)
賃金や退職金など労働者にとって重要な権利、労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の変更については、そのような不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものであることが求められるとの判断を示しました。労働条件の重要性が高いほど、変更を正当化するために必要とされる合理性のハードルも高くなるという考え方です。
6-3. 第四銀行事件(最高裁平成9年2月28日第二小法廷判決)
就業規則の変更の合理性を判断する際に考慮すべき要素として、次の7つを列挙した判決です。
- 就業規則の変更によって労働者が被る不利益の程度
- 使用者側の変更の必要性の内容・程度
- 変更後の就業規則の内容自体の相当性
- 代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況
- 労働組合等との交渉の経緯
- 他の労働組合又は他の従業員の対応
- 同種事項に関する我が国社会における一般的状況
厚生労働省の通達によれば、労働契約法10条本文に列挙された「労働者の受ける不利益の程度」「労働条件の変更の必要性」「変更後の就業規則の内容の相当性」「労働組合等との交渉の状況」は、この第四銀行事件判決の7要素を、関連するもの同士で統合して条文化したものです(厚生労働省・前掲通達 第3・4(3)オ(カ))。特に「変更後の就業規則の内容の相当性」には、代償措置の有無や社会的な一般的状況までもが広く含まれるとされている点は、実務上見落としやすいポイントです。
6-4. みちのく銀行事件(最高裁平成12年9月7日第一小法廷判決)
賃金体系の変更が、特定の層の労働者にのみ賃金コスト抑制の負担を負わせ、その負担の程度も大幅な不利益を生じさせるものであった事案で、変更の合理性が否定された判決です。同判決は、一方的に不利益を受ける労働者について、不利益性を緩和する経過措置などによる適切な救済を併せて図るべきであり、それがないまま大きな不利益のみを受忍させることには相当性がないと判示しました。
また、同判決では、多数労働組合(約73%の労働者が加入)が変更に同意していた事案であっても、賃金面における変更の合理性を判断する際に、労働組合の同意を大きな考慮要素と評価することは相当でないと判断されました。労働組合の同意があれば必ず合理性が認められるわけではないことを示す重要な判例です(以上、厚生労働省・前掲通達 第3・4(3)オ)。
7. 就業規則の変更手続と労働基準法89条・90条との関係
労働契約法11条は、就業規則の変更の手続について、労働基準法89条及び90条の定めるところによると規定しています。具体的には、以下の手続が必要です。
- 常時10人以上の労働者を使用する事業場では、変更後の就業規則を所轄の労働基準監督署長に届け出ること(労働基準法89条)
- 就業規則の変更について、事業場の過半数労働組合又は過半数代表者の意見を聴き、届出の際にその意見書を添付すること(労働基準法90条)
厚生労働省の通達では、これらの手続の履行は労働契約法10条本文の法的効果を生じさせるための要件そのものではないものの、10条本文の合理性判断に際しては就業規則の変更に係る諸事情が総合的に考慮されることから、労働基準法89条・90条の遵守状況は合理性判断において考慮され得るとされています(厚生労働省・前掲通達 第3・5(2)ウ)。つまり、届出や意見聴取の手続を適切に踏んでおくことは、後の合理性判断において有利な事情として働き得るということです。
8. 社会保険労務士の視点から見た実務上の留意点
以上を踏まえ、就業規則の不利益変更を検討する事業主の皆様に向けて、実務上のポイントを整理します。
- 変更の必要性を客観的な資料で説明できるようにしておく:経営状況、人件費の状況、制度の持続可能性など、変更の必要性を裏付ける資料を整理しておくことが望まれます。
- 労働者への説明と協議の記録を残す:労働組合や労働者の過半数代表者との協議の経緯、説明会の実施状況などは、合理性判断における重要な考慮要素となります。
- 不利益の程度に応じた代償措置・経過措置を検討する:みちのく銀行事件が示すとおり、不利益の程度が大きい場合には、経過措置や代償措置を設けることが合理性を基礎づける重要な要素となります。
- 周知の方法を明確にし、記録化する:就業規則の掲示・配布・電子データでの周知等の方法と実施時期を記録しておくことは、後日の紛争予防に資します。
- 労働基準監督署への届出と意見書の添付を確実に行う:労働基準法89条・90条の手続を確実に履践することは、合理性判断において考慮され得る事情となります。
これらの対応は、いずれも単独で決定的な要素となるものではなく、労働契約法10条が定める複数の考慮要素を総合的に満たしていく積み重ねが重要です。
9. まとめ
労働契約法10条は、就業規則の変更によって労働条件を労働者の不利益に変更する場合について、「周知」と「合理性」という2つの要件を満たすことを条件に、個別の同意がなくても変更の効力を認める規定です。この条文は、秋北バス事件、大曲市農業協同組合事件、第四銀行事件、みちのく銀行事件、フジ興産事件といった最高裁判例の積み重ねを踏まえて条文化されたものであり、条文の文言だけでなく、これらの判例が示してきた考え方を理解することが、実務対応において不可欠です。
就業規則の不利益変更は、手続を誤ると法的リスクを抱えることになる一方、事業の継続や労働条件の適正化のために避けて通れない場面も少なくありません。個別の事情に応じた対応については、顧問社会保険労務士など専門家に相談しながら、慎重に進めることをおすすめします。
参考文献・出典(一次情報)
- e-Gov法令検索「労働契約法」(平成19年法律第128号) https://laws.e-gov.go.jp/law/419AC0000000128
- e-Gov法令検索「労働基準法」(昭和22年法律第49号) https://laws.e-gov.go.jp/law/322AC0000000049
- 厚生労働省労働基準局長通達「労働契約法の施行について」(平成24年8月10日基発0810第2号、最終改正:平成30年12月28日基発1228第17号) https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_21314.html https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00tc3845&dataType=1&pageNo=1
- 厚生労働省「労働契約ポータルサイト 労働条件の変更」 https://roukeiseminar.mhlw.go.jp/alteration.html
- 厚生労働省「労働契約の終了に関するルール」 https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudouseisaku/chushoukigyou/keiyakushuryo_rule.html
- 最高裁判所大法廷判決 昭和43年12月25日(秋北バス事件、最高裁判所民事判例集22巻13号3459頁)
- 最高裁判所第三小法廷判決 昭和63年2月16日(大曲市農業協同組合事件)
- 最高裁判所第二小法廷判決 平成9年2月28日(第四銀行事件)
- 最高裁判所第一小法廷判決 平成12年9月7日(みちのく銀行事件)
- 最高裁判所第二小法廷判決 平成15年10月10日(フジ興産事件)
※本稿は、上記の法令・通達・判例(一次情報)に基づいて執筆しています。個別の事案への当てはめについては、必ず専門家にご相談ください。
