はじめに
「利用者やその家族からの理不尽な言動に、職員が疲弊している」——介護事業所の経営者や管理者から、こうした相談を受ける機会が増えています。介護現場では、要介護者・利用者本人やその家族から、暴言・暴力・過大な要求といった、いわゆる「カスタマーハラスメント(カスハラ)」が起こりやすいという特性があります。
これまで「利用者だから仕方がない」「サービス業だから我慢すべき」という空気の中で見過ごされてきたこの問題ですが、2025年(令和7年)6月11日に公布された改正労働施策総合推進法により、2026年(令和8年)10月1日から、事業主にカスタマーハラスメント防止措置が法律上の義務として課されることになりました。介護事業所も当然にこの義務の対象です。
本記事では、社会保険労務士の立場から、法令・行政通達・厚生労働省の一次資料に基づき、介護現場におけるカスタマーハラスメントの定義、具体例、法的根拠、そして事業所が講じるべき実務対応について、公平性を保ちながら整理します。なお、本記事は税務に関する内容は取り扱いません。
1. カスタマーハラスメントの法的定義
1-1. 改正労働施策総合推進法第33条による定義
カスタマーハラスメントの防止措置義務は、労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(昭和41年法律第132号。以下「労働施策総合推進法」)の改正により新設された、同法第33条第1項に規定されています。
厚生労働省が公表したリーフレットでは、職場における「カスタマーハラスメント」を次の3要素をすべて満たすものと定義しています。
①顧客等の言動であって、②その雇用する労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるもの
(出典:厚生労働省「令和8年10月1日からハラスメント対策が強化されます!カスタマーハラスメント対策の義務化【改正労働施策総合推進法・指針の内容】」<br> https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662576.pdf)
ここでいう「顧客等」には、顧客、取引の相手方に加えて、「施設(駅、空港、病院、学校、福祉施設、公共施設等)の利用者その他の当該事業主の行う事業に関係を有する者」が含まれるとされており、厚生労働省は福祉施設を明示的に例示しています。介護保険サービスの利用者やその家族は、まさにこの「福祉施設の利用者」に該当します。また、この言動には電話やSNS等インターネット上で行われるものも含まれます(同資料より)。
1-2. 「社会通念上許容される範囲を超えた言動」の具体的な例
厚生労働省のリーフレットは、社会通念上許容される範囲を超えた言動を、内容面と態様面の2つの観点から整理しています。
言動の内容が社会通念上許容される範囲を超えるものの例
- そもそも要求に理由がない、又は商品・サービス等と全く関係のない要求
- 契約等により想定しているサービスを著しく超える要求
- 対応が著しく困難な又は対応が不可能な要求
- 不当な損害賠償要求
手段や態様が社会通念上許容される範囲を超えるものの例
- 身体的な攻撃(暴行、傷害等)
- 精神的な攻撃(脅迫、中傷、名誉毀損、侮辱、暴言、土下座の強要等)
- 威圧的な言動
- 継続的、執拗な言動
- 拘束的な言動(不退去、居座り、監禁)
(出典:前掲 厚生労働省リーフレットより)
なお、厚生労働省が2026年2月26日付で告示した「職場におけるカスタマーハラスメントに関して雇用管理上講ずべき措置等に関する指針」では、言動の内容と手段・態様のいずれか一方のみが社会通念上許容される範囲を超える場合であっても、カスタマーハラスメントに該当し得るとされています。
2. 介護現場に特有のカスタマーハラスメントとは
2-1. 「介護ハラスメント」という呼び方について
介護業界では「介護ハラスメント」という言葉が使われることがありますが、これは行政による公式な法律用語ではなく、介護現場における顧客等からのハラスメント、すなわちカスタマーハラスメントを指す通称として用いられているものです。行政上の根拠に基づいて論じる際は、労働施策総合推進法上の「カスタマーハラスメント」として整理するのが正確です。
2-2. 介護現場でのカスタマーハラスメントの特徴
介護サービスは、身体介護など利用者の身体に直接触れる場面が多く、また訪問介護のように職員が単独で利用者宅を訪問する形態もあることから、他業種と比べてハラスメントが発生しやすく、かつ発覚しにくいという構造的な特徴があります。厚生労働省の「介護現場におけるハラスメント対策マニュアル」等の作成に関する事業でも、こうした介護現場特有の環境要因が課題として取り上げられています。
厚生労働省は、老人保健健康増進等事業(実施団体:三菱総合研究所)を通じ、平成30年度に「介護現場におけるハラスメント対策マニュアル」を、令和元年度に「管理者及び職員を対象にした研修のための手引き」を、令和2年度に「介護現場におけるハラスメント事例集」を作成・公表し、令和3年度に改訂しています。
(出典:厚生労働省「福祉・介護 介護現場におけるハラスメント対策」)https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_05120.html
このマニュアルでは、訪問介護サービスにおいて訪問時間の遅刻を理由に物を投げつけられるといった、介護現場特有の事例が紹介されています(出典:厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」)。介護現場で典型的に問題となる類型としては、以下のようなものが挙げられます。
- 身体的暴力:叩く、つねる、物を投げつける、車椅子等の器具で危害を加える
- 精神的暴力(暴言・威圧):大声で怒鳴る、人格を否定する発言、土下座の強要
- セクシュアルハラスメント:不必要な身体接触の強要、性的な言葉を投げかける
- 過大な要求:契約内容を超えるサービスの要求、ケアプランにない対応の強要
- 威圧的な家族対応:家族から職員個人への過度な叱責やクレームの繰り返し
3. なぜ今、介護現場でカスハラ対策が急務なのか
3-1. 法改正の全体像
2025年6月11日に公布された改正法により、労働施策総合推進法(カスタマーハラスメント対策)及び雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(求職者等セクシュアルハラスメント対策)が改正され、公布日から段階的に施行されています。カスタマーハラスメント防止措置の義務化については、2026年(令和8年)10月1日が施行日です。
(出典:厚生労働省福井労働局「労働施策総合推進法・男女雇用機会均等法及び女性活躍推進法の改正について」)
同法第33条第2項では、労働者がカスタマーハラスメントに関する相談を行ったこと、又は事業主による相談への対応に協力した際に事実を述べたことを理由とする解雇その他不利益な取扱いが禁止されています。
(出典:厚生労働省・公共コメント資料「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律の施行に伴う関係政令の整備に関する政令案」)
3-2. 事業主が必ず講じなければならない措置
厚生労働省のリーフレットでは、事業主が講じなければならない措置を、大きく4つの柱・10項目に整理しています。
① 事業主の方針等の明確化及びその周知・啓発
- カスタマーハラスメントには毅然とした態度で対応し、労働者を保護する旨の方針を明確化し、労働者に周知・啓発する
- カスタマーハラスメントの内容及びあらかじめ定めた対処の内容を労働者に周知する(例:管理監督者にその場の対応方針について指示を仰ぐ、可能な限り労働者を一人で対応させない、犯罪に該当し得る言動は警察へ通報する、本社・本部等へ情報共有し指示を仰ぐ 等)
② 相談体制の整備
- 3. 相談窓口をあらかじめ定め、労働者に周知する
- 4. 相談窓口担当者が適切に対応できるようにする
③ 事後の迅速かつ適切な対応
- 5. 事実関係を迅速かつ正確に確認する
- 6. 被害者に対する配慮のための措置を行う
- 7. 再発防止に向けた措置を講ずる
④ 対応の実効性を確保するために必要な措置/そのほか併せて講ずべき措置
- 8. 特に悪質と考えられるカスタマーハラスメントへの対処方針をあらかじめ定め、労働者に周知し、当該対処を行うことができる体制を整備する
- 9. 相談者等のプライバシーを保護するために必要な措置を講じ、労働者に周知する
- 10. 相談したこと等を理由として不利益な取扱いをされない旨を定め、労働者に周知・啓発する
(出典:前掲 厚生労働省リーフレット)
同リーフレットには、対策を講じる際の重要な留意点として、「消費者の権利や、障害者差別解消法における、障害を理由とする不当な差別的取扱いの禁止や合理的配慮の提供義務に留意する必要がある」旨が明記されています。介護現場では、認知症の周辺症状(BPSD)や精神疾患・障害の特性による言動と、カスタマーハラスメントに該当する言動とを、事実関係を丁寧に確認したうえで冷静に切り分ける視点が不可欠です。これは、利用者・家族の権利を不当に制限しないという公平性の観点からも重要です。
4. 東京都カスタマー・ハラスメント防止条例との関係
国の法改正に先行し、東京都では2025年(令和7年)4月1日に「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」が施行されています。同条例第1条は、次のように目的を定めています。
この条例は、カスタマー・ハラスメントの防止に関し、基本理念を定め、東京都、顧客等、就業者及び事業者の責務を明らかにするとともに、カスタマー・ハラスメントの防止に関する施策の基本的な事項を定めることにより、顧客等の豊かな消費生活、就業者の安全及び健康の確保並びに事業者の安定した事業活動を促進し、もって公正かつ持続可能な社会の実現に寄与することを目的とする。
(出典:東京都例規集データベース「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」)
同条例は罰則を伴わない理念条例ですが、都内で事業を行う事業者に対し、カスハラ行為の防止に主体的・積極的に取り組むこと、被害を受けた就業者の安全確保等を責務として求めています(出典:東京都「TOKYOはたらくネット」)
都内の介護事業所は、国の指針に加えてこの条例の趣旨も踏まえた対応が望まれます。
5. 安全配慮義務の観点からみたカスハラ対策の重要性
カスタマーハラスメント対策は、単に新設された義務を守るという以上に、使用者が本来的に負っている安全配慮義務の一内容でもあります。労働契約法第5条は、次のとおり定めています。
使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。
(出典:労働契約法第5条、e-Gov法令検索)
厚生労働省の通達(基発0810第2号・平成24年8月10日「労働契約法の施行について」)でも、使用者は労働の性質に由来する危険から労働者を保護するよう配慮すべき義務を負うことが確認的に説明されています。利用者・家族からの暴力や暴言を「業務の一環だから仕方ない」として放置することは、この安全配慮義務違反として法的リスクを事業所に生じさせかねません。介護職員の離職防止・人材確保の観点からも、カスハラ対策は経営上の重要課題です。
6. 介護事業所が取るべき実務対応
以上を踏まえ、介護事業所が2026年10月の義務化に向けて着手すべき実務対応を、社労士の視点から整理します。
6-1. 方針の明文化と周知
就業規則や運営規程等において、カスタマーハラスメントに対して事業所として毅然と対応する方針を明文化し、職員に周知します。あわせて、利用者・家族向けの重要事項説明書や契約書にも、カスタマーハラスメントに該当する行為があった場合の対応方針を記載しておくことが有効です。
6-2. 相談窓口の整備
誰が、どの窓口に相談すればよいかを明確にし、相談を受けた担当者が二次被害を生じさせないよう、対応方法についてあらかじめ研修を行っておくことが求められます。厚生労働省の「介護現場におけるハラスメント対策マニュアル」及び「管理者及び職員を対象にした研修のための手引き」は、こうした研修設計にそのまま活用できる一次資料です。
6-3. 一人対応を避ける体制づくり
訪問介護など単独訪問が前提となる業務形態では、複数名対応への切替基準や、緊急時に管理者へ連絡できる体制(携帯電話・GPS端末の携行等)をあらかじめ定めておくことが、厚生労働省リーフレットが例示する「可能な限り労働者を一人で対応させない」という措置の実践につながります。
6-4. 記録の徹底
言動の日時、内容、対応状況を客観的に記録することは、事実関係の迅速かつ正確な確認(措置⑤)の基礎となるだけでなく、認知症等の症状に起因する言動なのか、カスタマーハラスメントに該当する言動なのかを冷静に判断するためにも不可欠です。感情的な記述を避け、事実を時系列で残すことを職員に徹底します。
6-5. 悪質事案への対処方針とプライバシー保護
暴行や脅迫など犯罪に該当し得る言動については、警察への通報を含めた対応方針をあらかじめ定めておきます(措置⑧)。あわせて、相談者・被害者のプライバシー保護と、相談を理由とした不利益取扱いの禁止(措置⑨・⑩)を就業規則等に明記し、職員が安心して相談できる環境を整えることが重要です。
7. 利用者・家族の権利との公平なバランス
カスタマーハラスメント対策は、職員を保護すると同時に、利用者・家族の正当な意見・要望・苦情を封じるものであってはなりません。厚生労働省のリーフレットが留意点として明記するとおり、対策の実施にあたっては消費者の権利や、障害者差別解消法上の合理的配慮の提供義務にも十分配慮する必要があります。
介護保険サービスの利用者には、認知症をはじめとする疾患や障害により、意図せず激しい言動をとってしまう方も少なくありません。こうしたケースを一律に「カスタマーハラスメント」として処理するのではなく、まずはケアの内容や本人の状態を医療・介護の専門的知見も交えて確認し、必要な配慮やケアプランの見直しにつなげる視点が欠かせません。カスタマーハラスメントに該当するかどうかは、あくまで前述の3要件(顧客等の言動であること、社会通念上許容される範囲を超えること、就業環境を害すること)に照らして、個別の事情ごとに冷静に判断される必要があります。
8. まとめ
2026年10月1日の改正労働施策総合推進法の施行により、カスタマーハラスメント対策は、介護事業所を含むすべての事業主にとって法律上の義務となります。介護現場は、利用者との身体的接触が多いこと、訪問系サービスでは単独対応が生じやすいことなど、他業種にはない特有のリスクを抱えています。
一方で、対策の実施にあたっては、利用者・家族の正当な権利や、疾患・障害特性への合理的配慮とのバランスを保つことも、社会保険労務士として公平な立場から強調しておきたい点です。事業所の方針明確化、相談体制の整備、記録の徹底、そして職員研修——これらを一つひとつ丁寧に積み上げていくことが、働く職員と、サービスを受ける利用者双方にとって安心できる介護現場づくりにつながります。
制度改正の詳細や、自事業所の就業規則・マニュアルへの落とし込み方について不明な点がある場合は、最新の指針・通達を確認しつつ、顧問社会保険労務士等の専門家に相談することをおすすめします。
参考文献・一次情報リンク一覧
- 厚生労働省「令和8年10月1日からハラスメント対策が強化されます!カスタマーハラスメント対策の義務化【改正労働施策総合推進法・指針の内容】」 https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662576.pdf
- 厚生労働省「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf
- 厚生労働省「福祉・介護 介護現場におけるハラスメント対策」 https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_05120.html
- 厚生労働省 あかるい職場応援団「カスタマーハラスメントとは」 https://www.no-harassment.mhlw.go.jp/foundation/harassment_list/customer-hara
- 厚生労働省 あかるい職場応援団「業種別カスタマーハラスメント対策の取組支援」 https://www.no-harassment.mhlw.go.jp/countermeasure/customer_hara_industry
- 厚生労働省福井労働局「労働施策総合推進法・男女雇用機会均等法及び女性活躍推進法の改正について」 https://jsite.mhlw.go.jp/fukui-roudoukyoku/hourei_seido_tetsuzuki/koyou_kintou/hourei_seido/a03_9_1.html
- e-Gov法令検索「労働契約法」(第5条) https://laws.e-gov.go.jp/law/419AC0000000128
- 東京都例規集データベース「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」 https://www.reiki.metro.tokyo.lg.jp/reiki/reiki_honbun/g101RG00005328.html
- 東京都「TOKYOはたらくネット 東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」 https://www.hataraku.metro.tokyo.lg.jp/plan/kasuhara_jourei/index.html
- e-Gov パブリックコメント「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律の施行に伴う関係政令の整備に関する政令案」 https://public-comment.e-gov.go.jp/pcm/download?seqNo=0000303455
※本記事は2026年8月時点で公表されている一次資料に基づき作成しています。制度の詳細は今後、厚生労働省より順次公表される指針・通達等により補足される可能性がありますので、最新情報は上記リンク先にてご確認ください。 ※本記事は税務に関する内容を含みません。
