はじめに
「カスハラ(カスタマーハラスメント)」という言葉は、今やニュースや職場で日常的に耳にするようになりました。顧客や取引先からの理不尽なクレーム・暴言・過剰な要求によって、従業員が精神的に追い詰められたり、離職に至ったりするケースが社会問題として認識されています。
これまでカスハラは、パワーハラスメントやセクシュアルハラスメントと異なり、企業に対策を義務付ける法律上の規定がありませんでした。しかし、この状況は大きく変わろうとしています。2025年(令和7年)6月11日、労働施策総合推進法等の改正法(令和7年法律第63号)が公布され、カスハラ防止のための措置が事業主の法的義務として位置付けられることになりました[1][2]。また、これに先立ち2025年4月には、全国で初めて東京都が「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」を施行しています[8][10]。
本稿では、社会保険労務士の立場から、カスハラをめぐる法律・条例の一次情報(法令、通達・告示、行政官庁の公表資料等)に基づき、その内容と企業が取るべき実務対応を整理します。特定の企業や個人の見解に偏ることなく、公表されている制度の内容を客観的に解説することを目的としています。なお、税務に関する内容は本稿の対象外です。
カスタマーハラスメント(カスハラ)とは何か
厚生労働省による定義
カスハラという言葉に法律上の統一的な定義がなかった時期から、厚生労働省は企業向けの対策を進めるため、独自に定義を示してきました。厚生労働省が運営するハラスメント対策の総合情報サイト「あかるい職場応援団」では、カスタマーハラスメントについて、顧客等からのクレームや言動のうち、その要求内容の妥当性に照らして、要求を実現するための手段や態様が社会通念上不相当であり、それによって労働者の就業環境が害されるものと整理されています[5]。
ここで重要なのは、顧客からの「クレームそのもの」がすべてカスハラに該当するわけではないという点です。商品やサービスの不備を指摘し、改善を求める正当なクレームは、企業にとって業務改善のための貴重な情報でもあります。厚生労働省の「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(令和4年2月公表)でも、正当なクレームとカスハラは区別されるべきものとして扱われており、要求の内容に妥当性があるか、それを実現する手段・態様が社会的に相当なものかという2つの視点から判断する枠組みが示されています[3]。
改正労働施策総合推進法における定義の考え方
2025年6月に成立した改正法により、カスハラは法律上の枠組みの中に位置付けられることになりました。制度の解説記事等によれば、改正後の労働施策総合推進法では、カスハラに当たる言動は、おおむね次の3つの要素をすべて満たすものとして整理されています。
- 職場において行われる、顧客、取引先、施設利用者その他その事業に関係を有する者による言動であること
- その言動が、労働者の従事する業務の性質その他の事情に照らして、社会通念上許容される範囲を超えていること
- その言動により、労働者の就業環境が害されていること
この枠組みは、2019年(令和元年)の法改正で措置義務化されたパワーハラスメントの定義(優越的な関係を背景とした言動であること等)と考え方の骨格が共通しており、行為者が「顧客等」に置き換わった形になっている点が特徴です。厚生労働省は、改正法の施行に合わせて、事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)を策定・公布しており、具体的な判断基準や措置内容は今後この指針に沿って運用されることになります[2]。
カスハラの実態はどうなっているのか——厚生労働省の調査データ
規制の必要性を裏付ける根拠として、厚生労働省が実施した実態調査のデータが参考になります。厚生労働省委託事業として実施された「令和5年度職場のハラスメントに関する実態調査」(令和6年3月公表)によれば、過去3年間に「顧客等からの著しい迷惑行為」(カスハラ)に関する労働者からの相談があったと回答した企業の割合は増加傾向にあり、他のハラスメント類型と比較しても看過できない水準に達していることが示されています[4]。
また、同調査では、労働者自身が過去3年間にカスハラを受けたと回答した割合についても、パワーハラスメントに次いで高い水準であることが報告されています[4]。業種別に見ると、顧客と直接対面する機会の多い小売業、宿泊業・飲食サービス業、医療・福祉分野などで相談件数の割合が高い傾向がある点も、行政資料や自治体の公表資料で繰り返し指摘されています。
こうした調査結果は、単なる印象論ではなく、行政が政策立案の根拠として用いている一次データである点に意味があります。企業がカスハラ対策の必要性を社内で説明する際にも、これらの公的統計を引用することで、説得力のある説明が可能になります。
カスハラを規制する法制度の全体像
現時点でカスハラに関係する法規制は、大きく分けて次の2つの階層で整理できます。
東京都カスタマー・ハラスメント防止条例(全国初の条例)
東京都議会は2024年(令和6年)10月11日、「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」(令和6年東京都条例第140号)を制定し、2025年(令和7年)4月1日に施行しました[8][10]。都道府県レベルでカスハラの防止を明文で定めた条例としては全国初のものです。
条例の目的規定(第1条)では、カスタマー・ハラスメントの防止に関する基本理念を定め、都、顧客等、就業者及び事業者それぞれの責務を明らかにするとともに、防止施策の基本的事項を定めることにより、顧客の消費生活、就業者の安全・健康の確保、事業者の安定した事業活動を促進し、公正かつ持続可能な社会の実現に寄与することが掲げられています[8]。
条例の主な特徴は次のとおりです。
- 第4条において、何人もあらゆる場でカスタマー・ハラスメントを行ってはならないとする禁止規定が置かれている一方、罰則規定は設けられていません[8][35]。
- 第9条では、事業者に対し、基本理念にのっとりカスタマー・ハラスメントの防止に主体的かつ積極的に取り組む責務が明記されています[12]。
- 条例第11条の規定に基づき、東京都は2024年12月19日付けで「カスタマー・ハラスメントの防止に関する指針(ガイドライン)」を策定・公表しており、事業者が講ずべき具体的な取組内容が示されています[9][38]。
罰則がないという点で、条例は理念法・行為規範としての性格が強いといえますが、都内で事業を行う企業にとっては、対外的な説明責任やレピュテーションリスクの観点からも軽視できない制度です。また、東京都以外にも北海道や群馬県が2025年4月1日にカスタマーハラスメント防止条例を施行するなど、自治体レベルでの動きは全国に広がりつつあります[36]。
労働施策総合推進法の改正(雇用管理上の措置義務化)
条例が理念・努力義務を中心とする一方、企業実務により直接的な影響を及ぼすのが、労働施策総合推進法の改正です。同法は「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」(昭和41年法律第132号)の略称で、2019年の改正によりパワーハラスメント防止のための雇用管理上の措置義務(同法第30条の2)が事業主に課された経緯があります[49]。
2025年6月11日、この労働施策総合推進法を含む改正法(令和7年法律第63号)が公布されました。厚生労働省の公表資料によれば、改正のポイントは、いわゆるカスタマーハラスメント及び求職者等に対するセクシュアルハラスメントについて、防止のための雇用管理上必要な措置を講じることを事業主の義務とする点にあります[1][2]。
施行期日について、政府広報オンラインの解説では、改正法の施行期日は公布日である2025年6月11日から1年6月以内に政令で定める日とされていました[24]。その後、厚生労働省の公表資料により、施行期日を定める政令(令和8年政令第17号)が制定され、カスタマーハラスメント対策に関する規定は2026年(令和8年)10月1日に施行されることが確認されています[2][30]。あわせて、一部の規定は2026年4月1日に施行される予定である旨も示されています[44]。
改正法の主な内容は、次のように整理できます。
- 事業主の義務:職場における顧客等の言動に起因する問題に関し、労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じること
- 労働者の努力義務:事業主が講ずる措置に協力するよう努めること、カスハラに対する関心と理解を深め、他の労働者に対する言動に注意を払うよう努めること
- 顧客等の努力義務:カスハラに関する問題への関心と理解を深め、就業者への言動に必要な注意を払うよう努めること
- 国の責務:事業主・労働者に対する広報・啓発活動その他の措置を講ずること
対象となる事業主の範囲について、厚生労働省及び関連資料では、労働者を1人でも雇用していれば適用対象になるとされ、パワーハラスメント防止措置義務のときのような中小企業に対する猶予期間は設けられていません[6]。措置義務に違反した場合、厚生労働大臣による助言・指導・勧告の対象となり、勧告に従わない場合はその旨が公表される可能性がある点も、パワーハラスメント防止措置の枠組みと同様です。
カスタマーハラスメント対策企業マニュアルの活用
法改正に先立ち、厚生労働省は2022年(令和4年)2月、「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」を公表しています[3]。これは、企業が自主的にカスハラ対策に取り組むことを促すために作成されたもので、法的な義務化以前から企業実務の指針として広く参照されてきました。
マニュアルでは、企業が講ずべき対策として、次のような項目が示されています。
- 事業主のカスハラ対策に関する基本方針・基本姿勢の明確化と周知・啓発
- 従業員からの相談に対応する体制の整備(相談窓口の設置等)
- 対応方法・手順のマニュアル化と定期的な研修の実施
- カスハラが実際に発生した場合の事後の迅速かつ適切な対応(被害者のケア、行為者への対応等)
- 事業主単独では対応が困難な場合の弁護士・警察等の外部機関との連携体制の整備
さらに厚生労働省は、業種ごとの実態に即した対応を促すため、スーパーマーケット業をはじめとする業種別のカスタマーハラスメント対策マニュアルやポスター、研修動画を順次公表しています[19]。これらの資料は、いずれも「あかるい職場応援団」のウェブサイトから確認できます[5]。改正法の施行に伴い今後、告示に基づく指針(令和8年厚生労働省告示第51号)が実務上の中心的な参照先となりますが、既存のマニュアルも実務対応の土台として引き続き有用です。
企業(事業主)が今から準備すべき実務対応
2026年10月1日の措置義務化に向けて、企業規模を問わず対応が求められます。社会保険労務士の立場から見て、押さえておくべき実務上のポイントを整理します。
就業規則・社内規程の整備
カスハラに関する事業主の方針を明確化し、就業規則や関連規程に位置付けることが出発点になります。パワーハラスメント防止規程を整備済みの企業であれば、その枠組みを参考にしつつ、カスハラに関する規定を新設・追記することが考えられます。
相談体制の整備
改正法が求める「雇用管理上必要な措置」の中心は、相談に応じ、適切に対応するための体制整備です。既存のハラスメント相談窓口をカスハラにも対応できるよう拡張するか、専用の窓口を設けるかを検討する必要があります。
対応マニュアル・記録様式の整備
現場の従業員が実際にカスハラに直面した際、どのように初動対応すべきかを明文化しておくことが重要です。厚生労働省のマニュアルや業種別マニュアルを参考にしながら、自社の業態に即した対応フローを整備し、発生事案を記録する様式を用意しておくことで、事後対応や再発防止にもつなげやすくなります[3][19]。
教育・研修の実施
従業員に対して、カスハラの定義や正当なクレームとの違い、初動対応の方法について研修を行うことは、現場の混乱を防ぐうえで有効です。あわせて、従業員自身が顧客等に対する加害者とならないよう注意を促す視点も、改正法が努力義務として労働者に求めている内容と整合的です。
東京都内で事業を行う場合の追加対応
東京都内に事業所を有する企業は、労働施策総合推進法の措置義務に加えて、東京都カスタマー・ハラスメント防止条例及び同条例に基づく指針の内容も踏まえた対応が求められます[8][9]。都は、条例施行後、企業向けの相談窓口の設置や、マニュアル整備・実践的なカスハラ防止対策を行った企業等に対する奨励金制度なども展開しており、これらの支援策の活用も検討に値します[32]。
まとめ
カスハラをめぐる法制度は、2025年から2026年にかけて大きな転換点を迎えています。東京都をはじめとする自治体による条例の広がりと、労働施策総合推進法の改正による全国一律の雇用管理上の措置義務化という、2つの動きが同時並行で進んでいる状況です。
企業にとって重要なのは、単に「義務だから対応する」という姿勢にとどまらず、従業員の就業環境を守ることが、結果として人材の定着や生産性の向上、ひいては顧客との健全な関係構築にもつながるという視点を持つことです。厚生労働省の公表資料や自治体の一次情報を継続的に確認しながら、自社の実情に即した対策を計画的に進めていくことが求められます。
制度の詳細な適用関係や、自社の就業規則・相談体制の具体的な整備方法については、個別の事情によって最適な対応が異なります。社内での検討にあたっては、顧問社会保険労務士等の専門家に相談しながら進めることをおすすめします。
参考文献・出典(一次情報)
[1] 厚生労働省「職場におけるハラスメントの防止のために」 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/seisaku06/index.html
[2] 厚生労働省「令和7年の労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(労働施策総合推進法)等の一部改正について」 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/zaitaku/index_00003.html
[3] 厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(令和4年2月) https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000915233.pdf
[4] 厚生労働省「令和5年度職場のハラスメントに関する実態調査 結果概要」(雇用環境・均等局、令和6年5月) https://www.mhlw.go.jp/content/11909000/001259093.pdf
[5] 厚生労働省 あかるい職場応援団「カスタマーハラスメントを知っていますか?」 https://no-harassment.mhlw.go.jp/customer_hara_index
[6] 政府広報オンライン「労働施策総合推進法 一部改正でハラスメント対策強化」(2025年10月7日) https://www.gov-online.go.jp/article/202510/entry-9434.html
[8] 東京都例規集データベース「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」(令和6年東京都条例第140号) https://www.reiki.metro.tokyo.lg.jp/reiki/reiki_honbun/g101RG00005328.html
[9] 東京都産業労働局「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」 https://www.sangyo-rodo.metro.tokyo.lg.jp/basic/koyou/kasuharajourei
[10] 東京都「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例施行」(都政報道発表資料、令和7年3月28日) https://www.metro.tokyo.lg.jp/information/press/2025/03/2025032804
[49] 法務省 日本法令外国語訳データベースシステム「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」(昭和41年法律第132号) https://www.japaneselawtranslation.go.jp/ja/laws/view/3957/ja
※本稿は2026年8月時点で公表されている一次情報に基づき作成しています。改正労働施策総合推進法の施行に伴う指針(令和8年厚生労働省告示第51号)等の詳細は、今後の官報公示・厚生労働省の公表内容もあわせてご確認ください。
