はじめに
「カスタマーハラスメント(カスハラ)対策として、社内研修を実施すべきか」「法改正で何が変わるのか」——近年、企業の人事・労務担当者からこうした相談が急増しています。
背景にあるのは、2025年(令和7年)6月に成立した改正労働施策総合推進法です。この改正により、事業主にはカスタマーハラスメントを防止するための雇用管理上の措置が法的義務として課されることになりました。施行日は2026年(令和8年)10月1日です。
本記事では、社会保険労務士の立場から、法令・厚生労働省告示・行政公表資料といった一次情報のみを根拠に、カスハラの定義、法改正の内容、そして研修が果たす役割について、公平かつ客観的に解説します。なお、本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の事案における法的判断や具体的な対応は、顧問の社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。また、税務に関する内容は本記事の対象外です。
カスタマーハラスメントとは何か-厚生労働省の定義
職場におけるカスタマーハラスメントの3要素
改正労働施策総合推進法第33条に基づき厚生労働省が定めた指針(「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」令和8年厚生労働省告示第51号)では、職場における「カスタマーハラスメント」を、次の3つの要素をすべて満たすものと定義しています。
- 職場において行われる顧客等の言動であること
- その言動が、労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたものであること
- その言動により労働者の就業環境が害されること
この3要素は、いずれか一つでも欠ければカスタマーハラスメントには該当しないとされている点が重要です。つまり、顧客からの厳しい指摘やクレームがあったというだけで、直ちにカスハラと判断されるわけではありません。
「顧客等」の範囲
指針でいう「顧客等」とは、顧客や取引の相手方に限られません。駅・空港・病院・学校・福祉施設・公共施設などの利用者、今後商品の購入やサービスの利用をする可能性がある者、取引先の担当者、施設利用者の家族、さらには施設の近隣住民までもが含まれるとされています。電話やSNS等インターネット上で行われる言動も対象です。
「社会通念上許容される範囲を超えた言動」の具体例
指針は、「言動の内容」と「手段・態様」の両面から、範囲を超えるものの典型例を示しています。
言動の内容が範囲を超えるもの
- そもそも理由がない、または商品・サービスと全く関係のない要求
- 契約等により想定しているサービスを著しく超える要求
- 対応が著しく困難、または不可能な要求
- 不当な損害賠償請求
手段や態様が範囲を超えるもの
- 身体的な攻撃(暴行・傷害等)
- 精神的な攻撃(脅迫・中傷・名誉毀損・侮辱・暴言・土下座の強要等)
- 威圧的な言動
- 継続的、執拗な言動
- 拘束的な言動(不退去・居座り・監禁)
このいずれか一方のみが範囲を超える場合でも、カスタマーハラスメントに該当し得るとされている点にも留意が必要です。判断にあたっては、言動の目的、経緯や状況、業種・業態、業務の内容・性質、言動の態様・頻度・継続性、労働者の心身の状況、行為者との関係性などを総合的に考慮することが求められます。
なお、指針は、顧客等からの苦情のすべてがカスタマーハラスメントに該当するわけではないこと、また、障害者が不当な差別的取扱いをしないよう求めることや、社会的障壁の除去を必要としている旨の意思を表明すること自体はカスタマーハラスメントに当たらないことも明記しています。この点は、障害者差別解消法における合理的配慮の提供義務との関係でも重要な視点です。
法改正の背景-労働施策総合推進法改正のスケジュール
いつ、何が変わるのか
2025年6月11日、「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律」(令和7年法律第63号)が公布されました。この改正により、労働施策総合推進法第33条にカスタマーハラスメント防止に関する規定が新設され、事業主に雇用管理上必要な措置を講じることが義務付けられることになりました。
施行日は、公布の日から起算して1年6月を超えない範囲内で政令が定める日とされていましたが、厚生労働省の労働政策審議会雇用環境・均等分科会での審議を経て、2026年(令和8年)10月1日と定められています。
これまでとの違い
従来、カスハラに関する対応は、2020年1月に策定された「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和2年厚生労働省告示第5号)の中で、パワーハラスメント防止措置に付随する形で「望ましい取組」として位置づけられているに過ぎませんでした。法的な義務ではなかったのです。
今回の改正により、カスハラ対策はパワーハラスメント・セクシュアルハラスメント対策と並ぶ、事業主の法律上の措置義務となります。義務を怠った場合には、労働施策総合推進法に基づき、行政による助言・指導・勧告の対象となり得ます。
なぜ今、カスハラ研修が必要なのか-実態調査データから見る現状
制度の話だけでなく、実際にカスハラがどれほど深刻な問題となっているのか、厚生労働省が公表しているデータを見てみましょう。
厚生労働省委託事業「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査報告書」(令和6年3月、実施主体:PwCコンサルティング合同会社)によると、過去3年間に各ハラスメントの相談があったと回答した企業の割合は、高い順に以下のとおりです。
- パワーハラスメント:64.2%
- セクシュアルハラスメント:39.5%
- 顧客等からの著しい迷惑行為(カスハラ):27.9%
- 妊娠・出産・育児休業等ハラスメント:10.2%
- 介護休業等ハラスメント:3.9%
カスハラに関する相談があったと回答した企業の割合は、前回調査(令和2年度)と比較して8.4ポイント増加しており、他のハラスメントに比べて増加傾向が顕著であることが指摘されています。
業種別に見ると、相談があったとする企業の割合は医療・福祉、宿泊業・飲食サービス業、不動産業・物品賃貸業などで高い水準にあります。対人サービスの比重が大きい業種ほど、カスハラのリスクにさらされやすい構造があることがうかがえます。
こうしたデータは、カスハラが一部の企業だけの問題ではなく、業種を問わず多くの職場で現実に発生している課題であることを示しています。だからこそ、法改正を待つまでもなく、多くの企業がすでに研修等の予防的取組みに着手し始めているのです。
事業主に義務付けられる措置-指針が示す4つの柱・10項目
厚生労働省の指針は、事業主が必ず講じなければならない措置として、大きく4つの柱・10項目を示しています。
1. 事業主の方針等の明確化及びその周知・啓発
① カスタマーハラスメントには毅然とした態度で対応し、労働者を保護する旨の方針を明確化し、労働者に周知・啓発する ② カスタマーハラスメントの内容及びあらかじめ定めた対処の内容を労働者に周知する(管理監督者への指示仰ぎ、労働者を一人で対応させない工夫、犯罪に該当し得る言動への警察通報、本社・本部への情報共有など)
2. 相談体制の整備
③ 相談窓口をあらかじめ定め、労働者に周知する ④ 相談窓口担当者が適切に対応できるようにする
3. 事後の迅速かつ適切な対応
⑤ 事実関係を迅速かつ正確に確認する ⑥ 被害者に対する配慮のための措置を適正に行う ⑦ 再発防止に向けた措置を講ずる
4. そのほか併せて講ずべき措置・抑止のための措置
⑧ 特に悪質と考えられるカスタマーハラスメントへの対処方針をあらかじめ定め、労働者に周知し、対応できる体制を整備する(警察への通報、警告文の発出、法令の範囲内でのサービス提供拒否、出入り禁止、仮処分命令の申立て等) ⑨ 相談者等のプライバシーを保護するために必要な措置を講じ、労働者に周知する ⑩ 相談したこと等を理由として不利益な取扱いをされない旨を定め、労働者に周知・啓発する
これらはあくまで「必ず講じなければならない措置」であり、指針はこれに加えて「望ましい取組」も示しています。ここに、研修の位置づけが明確に登場します。
カスハラ研修が果たす役割-指針が示す「望ましい取組」としての位置づけ
厚生労働省の指針は、カスタマーハラスメントの原因や背景となる要因を解消するための取組として、次のような内容を「望ましい取組」に位置づけています。
- 労働者が自社の商品やサービスをよく理解し、顧客等への対応力の向上を図るための研修等
- 労働者が顧客等への理解を深めるための必要な取組
つまり、研修は法律上の「義務」そのものではありませんが、指針において明確に推奨されている取組であり、10項目の義務的措置を現場で実効性あるものにするための土台となるものです。方針を策定しても、従業員一人ひとりがその内容を理解し、実際の場面で適切に行動できなければ、制度は機能しません。研修は、この「知っている」を「実践できる」に変える役割を担っています。
厚生労働省はすでに「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(2022年2月作成)を公表しており、令和5年度の実態調査でも、就活等セクハラに関する取組の一つとして、このマニュアルの活用状況が調査項目に挙げられています。企業がカスハラ対策を検討する際の一次情報として、こうした行政資料を確認することも有用です。
カスハラ研修を設計する際に押さえておきたいポイント
社会保険労務士として企業のハラスメント対策支援に携わる立場から、研修設計にあたって特に重要と考えるポイントを整理します。
正当なクレームとの境界線を明確にする
指針が示すとおり、カスハラ該当性は「言動の内容」と「手段・態様」の両面から、様々な事情を総合的に考慮して判断されます。研修では、単に「威圧的な態度は許さない」という抽象論にとどまらず、指針が示す具体例(不当な要求、身体的攻撃、精神的攻撃、威圧的言動、継続的・執拗な言動、拘束的言動等)を用いながら、現場の従業員が判断に迷わないための共通基準を示すことが求められます。
対応フローと相談体制を周知する
指針が求める「事業主の方針等の明確化及びその周知・啓発」「相談体制の整備」を実効的にするためには、研修の中で、実際の相談窓口の場所・連絡方法、管理監督者への報告ルート、一人で対応させない体制などを具体的に説明することが不可欠です。方針を定めるだけでなく、従業員が「いざというときにどう動けばよいか」を理解している状態を作ることが重要です。
消費者の権利や合理的配慮とのバランスに留意する
指針は、対策を講じる際には消費者の権利や、障害者差別解消法における不当な差別的取扱いの禁止・合理的配慮の提供義務に留意する必要があると明記しています。研修においても、「顧客対応を萎縮させる」ことが目的ではなく、正当な指摘やクレームには引き続き真摯に対応しつつ、社会通念上許容される範囲を超えた言動から従業員を守るという、両立の視点を持たせることが大切です。
他社の労働者・派遣労働者への配慮
指針では、自社の労働者以外の者(他の事業主が雇用する労働者や個人事業主等)に対する顧客等の言動についても、同様の方針を示すことが望ましいとされています。また、労働者派遣法第47条の4の規定により、労働者派遣の役務の提供を受ける事業主は、派遣労働者についても自社の労働者と同様の配慮・措置を講ずる必要があります。取引先や協力会社と接点を持つ業務がある企業では、この点も研修内容に含めることが望まれます。
相談者のプライバシー保護と不利益取扱いの禁止
指針が定める⑨・⑩の措置にあるとおり、相談したことを理由とする不利益取扱いの禁止と、相談内容のプライバシー保護は、実効性ある相談体制の前提条件です。研修では、これらのルールを管理監督者・相談窓口担当者に徹底することが、従業員の安心感につながることを強調する必要があります。
企業が今から準備すべきこと
2026年10月1日の施行までに、企業には次のような準備が求められます。
- カスタマーハラスメントに関する社内方針の策定・周知
- 相談窓口の設置と担当者への教育
- 対応マニュアル・対処フローの整備
- 管理監督者・現場従業員向けの研修の実施
- 相談者のプライバシー保護及び不利益取扱い禁止に関する社内ルールの明文化
これらは、パワーハラスメント防止措置(労働施策総合推進法第30条の2)ですでに構築されている相談体制や研修の仕組みを土台に、カスハラの特性(行為者が社外の第三者である顧客等であること)を踏まえて拡張していくアプローチが現実的です。既存のハラスメント防止体制を持つ企業ほど、比較的スムーズに対応を進められると考えられます。
まとめ
カスタマーハラスメント対策は、2026年10月1日の改正労働施策総合推進法の施行により、事業主にとって「望ましい取組」から「法律上の義務」へと明確に位置づけが変わります。厚生労働省の指針は、方針の明確化、相談体制の整備、事後対応、そして抑止のための措置という4つの柱・10項目の措置義務を示す一方で、研修の実施を、これらの措置を実効性あるものにするための「望ましい取組」として位置づけています。
制度の正確な理解なくして、実効性のある研修や社内体制の構築はできません。本記事で紹介した厚生労働省の告示・指針・実態調査データといった一次情報を出発点に、自社の業種・業態に応じたカスハラ対策を検討していただければ幸いです。個別の制度設計やリスク評価については、顧問社会保険労務士など専門家への相談をおすすめします。
参考文献・出典(一次情報)
- 厚生労働省「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和8年厚生労働省告示第51号)
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf - 厚生労働省「2026年(令和8年)10月1日から、カスタマーハラスメント対策、求職者等に対するセクシュアルハラスメント対策が義務化されます!」(詳細版リーフレット)
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662580.pdf - 労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律(令和7年法律第63号)の概要(厚生労働省)
https://www.mhlw.go.jp/content/001502758.pdf - 厚生労働省「職場におけるカスタマーハラスメントに関して雇用管理上講ずべき措置等に関する指針について」(カスタマーハラスメントの防止対策の推進に係る関係省庁連携会議 資料)
https://www.mhlw.go.jp/content/11921000/001670347.pdf - 令和5年度厚生労働省委託事業「職場のハラスメントに関する実態調査」報告書(令和6年3月)
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001541299.pdf - 「職場のハラスメントに関する実態調査 結果概要」(令和5年度厚生労働省委託事業)雇用の分野における女性活躍推進に関する検討会(第6回)資料
https://www.mhlw.go.jp/content/11909000/001259093.pdf - 政府広報オンライン「カスハラとは?法改正により義務化されるカスハラ対策の内容やカスハラ加害者とならないためのポイントをご紹介」
https://www.gov-online.go.jp/article/202510/entry-9370.html
※本記事の内容は、上記の法令・厚生労働省告示・行政公表資料に基づいて作成した一般的な情報です。個別の事案に対する法的助言ではありませんので、具体的な対応については顧問社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。
